多弦楽器の暴奏

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

蜘蛛の静かな食卓

蝶を追う合間に何度となく脳震盪トンボを見るが、一向に回復の気配もなく、翌朝には動かなくなって息絶えていた。自分が殺めてしまったという自責の念などなく、目の前に張り巡らされたオニグモの蜘蛛の巣に、このトンボを放てばどうなるのだろうか。と、いった好奇心を止められなかった。

蜘蛛の巣にトンボを放ったが、すぐには飛びついてこない。20秒ぐらいは様子を伺っているような雰囲気だったが、一気に近づいたかと思いきや、腹の先端をトンボにめがけ大量の糸を放出する。一本が出でくるのではなく、数十の束のような白い糸の塊というべきか。蜘蛛も要領を得ていて、羽根を糸でぐるぐる巻きにして獲物の動きを封じる。(とはいっても死んでいるのだが。)要した時間は4、5秒ぐらいだろう。とにかく手際がよく速く、そして何よりも静かだった。草食動物の首にかぶり付き窒息死させる獰猛な肉食獣のような見た目の荒々しさを感じさせるが、それとは裏腹に、音もなく冷静に事は運ばれた。そして胴体に食らいつき体液を吸い始める。

目を覆いたくなるような凄惨な光景だとは思わない。むしろリアルに行われる出来事を息を飲み目を凝らして見た。今回は自分が演出したから、という話ではなく、これが自然界で繰り広げられている現実なのだ。我々人間だって肉を食う。だだ、食べる人間が直接手を下さないだけで、見えないところで誰かがやってくれているだけの話しなのだ。

解剖学者の養老孟司氏は、こう語る。我々は見たくないものを日常から徹底的に排除してきた。それは死であったり、死体であったり、排泄物であったり。日本でも中世では死というものがもっと日常的に身近に存在していたぶんだけ実感があった。現代人にとって「死」は実在ではなくなってきている。死が本気じゃなくなってきたと言ってもいい。死というものを現実的に捉えるということが段々希薄になっていった、と話す。

今の小中学の理科の授業において、フナやカエルの解剖というものをやらなくなったそうだ。気分が悪くなる生徒が出てきたり、授業とはいえ命を奪うことは生命尊重に反するだとか、動物愛護の視点からして、かわいそうなどの意見があるようだ。では、ヒトが他の動植物を食べるというその意味や生命の尊さなど、一体どこで学ぶのか。

時間を掛けて体液を吸い尽くし満足したのか、その静かな食卓を後にして蜘蛛はどこかに行ってしまった。残されたトンボの死骸と穴の大きく開いた巣を残して。そして廃墟のような静寂と生の残影も残していった。