多弦楽器の暴奏

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

ゴースト

この夏、テレビのスペシャルプログラムとかで心霊映像スペシャルをよく観た。ディスカバリーチャンネルでも「Ghost Lab」という番組があって興味津々観たりした。今回は自分なりに心霊現象について考えてみる事にした。霊が存在するかしないかという事ではなく、仮に存在していると仮定したとして、それは一体何なのか。そしてそれは一体何で出来ているだろうか、という事を考える事にした。

心霊写真ブームのようなもの

小学校の頃、夏休みになるとテレビで心霊スペシャルをよくやっていた。心霊写真特集とか新倉イワオ氏の「あなたの知らない世界」など怖いのだけれどついつい観てしまい、夜中に小便に行くのが怖かったものだ。

その頃はユリ・ゲラーの超能力とか川口探検隊や矢追純一氏のUFOスペシャルとか、そのちょっと後ぐらいに稲川淳二の怪談とか、口裂け女とか出て来た。あと、ノストラダムスの大予言で30歳を過ぎた頃の円満な家庭を持つだろう自分の将来を案じたりしたものだ。

正直怖いものや不思議なものが多かったが、今の同じようなタレントが出演するバラエティーやその番組の再編集スペシャルやハプニング映像の使い回しといったものは少なく、今となっては少し失笑してしまうぐらい本気のミステリー番組の構成が多かったと記憶する。それぐらい観ていて面白かったものだ。

心霊写真はその最たるもので、家族や友人達とこぞって変なものが写っていないか探したものだった。中には集合写真などでわざと友人の肩に手をおいて心霊写真を演出する悪戯も流行った。

その昔、銀塩フィルムの時代にフィルムの巻き取りミスによる二重露光や、心理学的なシュミラクラ現象のような写真が多くあったのは確かだろう。木や岩が人の顔に見えると言って、わざわざ霊能者(と自分で言っている人)を連れて来て、「これは、戦国時代の落ち武者が・・・」などという眉唾物のコメントをする。大人になって非科学的な現象をどちらかというと否定的な感情で見ていた。そんなものあるはずがない、と。

時代はデジタルカメラの時代になり、レタッチで誰でも簡単に心霊写真のようなものを意図的に作り出せるようになった。それがかえって心霊写真が出てこなくなったり、心霊写真を扱うテレビプログラムの減少など、次第にマスコミも取り上げなくなっていったのではないかと考える。ちょうどデジタルカメラが一般的に普及していった2000年当たりからだろうか。そんなふうに自分では捉えていた。

偽物8割、説明不可能2割

今回、はじめに書いたように色々な番組を観て、以前のような番組ないようではないことに気付いた。それは昔のような霊が写り込んだとされる「写真」を扱ったものではなく、そのほとんどがホームビデオや固定された監視カメラ、放送用のカメラやで撮影された「動画」であるという点だ。高感度マイクを使って集音されたものや、高感度の暗視カメラや様々なセンサーの類いの最新の測定機器を駆使したものまであった。

そして、それらに写るはずのない何かが写っているのだ。
あれは、本当なのだろうか?。

精巧にできた偽物とおぼしき作為的なものが多いと感じる。

  • どうして一般人が高感度カメラ持参で夜の町をドライブしたり森を彷徨ったりするのか。
  • エレベーターの監視カメラにしても、本来エレベータ内全体を捉えるように広角レンズを使っているはずなのにも関わらず、室内の半分しか撮影されないという奇妙なアングル設定がおかしい。
  • どれも写っているのは少女から30〜40歳までの長髪の細身の女性ばかりで一様に白いロングドレスを身にまとうのは、ステレオタイプ過ぎやしないだろうか。
  • ネタばらし済みの有名なプロモーションビデオはやはり多かった。

しかし、信じがたいが疑いようのないものもあるのは確かに紹介されていた。

仮に心霊体験とか脳が恐怖心から勝手に作り上げた幻覚だとしたら、決して映像として記録されないはずだ。実際に光という波長が存在するから人の視覚に入り、その映像を脳が認識するのだし、映像としても光学レンズを通して記録される。

霊が人に憑依するシーンだって考えるとよくわからない。人間には脳の中におそらく意識というものが何故かあって(この”何故か”ということについては、また別の機会に)人間の行動をある程度、支配し制御している訳で、それによって我々は思考し判断し、そして行動をしているはずなのだが、何故かそれが乗っ取られてしまう。ちょうどコンピューターのハッキングのような現象が生命体の中で起こってしまっている。そして、憑依した別の意識のようなものが乗取ったヒトの記憶のアーカイブの中に存在しなかった記憶(霊自身の記憶)に即して語りかけ、体を動かし何らかの意思表明をしている。それが、普通では考えられない事だからそれを見る側の人間としては、不気味だったり恐怖だったりという事になってしまう。一体何が起こっているのか。

人体は精巧なロボット、生命はシステム

人体は精巧にできた電気仕掛のロボットだ。脳の中の神経系の情報は電気信号で伝わっていく。脳の中では何らかの刺激に対して0.1秒の瞬間に1000億個のニューロンと呼ばれる神経細胞が一斉に発火して活性化する。薄暗くどこまでも続く大草原に風が吹き、それが波打ちながら小さな光の点滅が瞬く。そんなイメージで私は捉えている。それは例えるならば、厖大なコンピューターネットワークの海に広がる情報に対する自分のイメージと重なるのが不思議でならない。これは微弱な電気信号であるシグナルだし、エピソードや意味といった記憶もまた電気信号だともいえ、脳の中にそのシグナルが貯められているのだ。ちょうどハードディスクに保存された映像のように。そして、これらの蓄積されたデータを取り出して処理や計算や判断といったことを脳の専門の部位それぞれが連携して瞬時に行う。そこから発せられた命令が、また電気信号となって筋肉まで届き、その反応として我々は手足を動かしたり、声帯を震わせて発音したりしている。これは意識、無意識関係なく行っている。

コンピューター機器なども情報を記憶していて、そのデータは電気として記録、保存されている。だから、エラーが起きたり書き換わったり簡単に起こってしまう。電気はヒトの人体の中だけにしか存在し得ないものかというと、決してそうではない。自然界にも存在する物理的な現象なのだから、数万年万年前の人類の登場以前からすでに存在していたものだ。そして、人だけが電気でコントロールされた生命体というと、それも決してそうゆうものでもない。他の単純な構造を持つ生物とて、その基本的なメカニズムは同じある。

霊も意識なのか?

ここからは僕の仮説というか推論になる。意識や記憶というものは、微弱な電気信号の塊のようなもので、ひょっとするとヒトが生命体として機能しなくなっても(肉体が死んでも)、その電気信号は何らかの力で何らかの状態として保たれる。それが魂とかいう名で呼ばれ体を抜けて漂う。ということなのだろうかと考える。では、それらを留めるための器なり何なりの媒体が他に必要なはずではないだろうか。それとも、自身の電気エネルギーで拡散することなく互いに結束してひとつの集合体としていられるのかもしれない。

ここまで考えて出てきた仮説をまとめると、

  • 人間を含む有機的な生命体は電気信号で制御され、意識や記憶は電気信号として脳内に存在し、運動そのものも電気信号を介している。
  • 電気は当然のことだが有史以前から自然界に存在し、おそらく地球、いや宇宙の誕生の時からすでに存在しているもの。
  • 霊や魂などといったオカルト的な文脈で語られるものは、仮にヒトから切り離された電気信号の集合体だとしてもおかしくはない。

しかし、それらを保っている媒体が何なのか。

構造の単純な生物は、外部を認識するだけの感覚器官も人間ほど発達していないため、脳の容量も小さく扱っている情報である電気信号の相対的な量そのものが人間と比べて圧倒的に少ない。代謝や増殖が出来なくなり死んでしまって電気信号だけが仮に残ったとしても大したエネルギーでもなく、非常に弱くやがて消滅していく。しかし、感覚器官と脳の相互作用や言語の獲得などによって高度に進化していった末に、現在の我々である人間が処理する情報量が厖大化していった。そしてついにはデーターそのものがなぜか「意識」を持つようになり、学習や思考や推論といった高度な処理や、創造や思想といった概念までつくりだす事もできる高度なシステムが出来上がってしまった。そんな大量のデータを持つ意識というシステムは互いに結びつく力が強く、例え肉体が滅んだとしても集合体として、それ単体で存在する事が可能になっていったのではないだろうか。もしくは、まだ知り得ない力や物質が介在しているのかもしれない。

ここまで書いて気付いたのだが、いわゆるコンピューターが進化して自我が芽生えて人類を攻撃するといった、SF小説の話に似ていないだろうか。(ターミネーター人工知能スカイネット攻殻機動隊人形遣いマトリックスザイオンなど)

現在の科学の限界、未知の物質

いったん話はそれるようだが、宇宙物理学の話。数十年前までは宇宙は真空とされて来た。すなわち何らかの原子が存在しない状態といわれた来た。しかし、近年になり宇宙の全質量を計算すると、我々の五感で捉える事の出来る、あるいは現状の測定機器で計測可能な原子というものは宇宙全体のたった4%に過ぎないことが分かっている。残りの96%は一体何なのか。今これが物理学の学者が懸命に捉えようとしている暗黒物質と呼ばれているものだ。宇宙誕生の秘密に迫るマクロ的な研究と、量子力学のようなミクロな研究が進められている。

ということは、我々が当たり前だ、科学で証明済みだと思っている事柄は実は僅かで、まだまだ現状の科学では証明されていないものばかりなのだ。飛行機が何故飛ぶのか、どうして接着剤がくっつくのか、そんなこともまだ分かっていないのだ。すべては仮説ばかりなのだ。生命の定義も正確に出来ていないし、意識が何処に宿っているのかもまだ証明されていないのだから。

ならば、この地球の大気中においても未確認な暗黒物質のようなものが存在して、そこに意識なり何なりが固定されていているのではないかとも考えられる。それがわかれば、重力に逆らって浮遊したり、瞬間移動して急に現れたり、透明になる事も証明出来そうな気がする。今は未知な事もいずれは証明される日が来る。で、気が済めばいいのだが、そうはいかない。

それでも人生の約1/3は眠っていて意識がない

大体の人が毎日の睡眠時間は大体6〜8時間といた人が多いのではないかと思う。そうすると人生の1/3は眠っている事になる。世界一寿命が長いとされる日本の平均寿命は約82歳なので、単純に計算したとしても27年寝ている事になる。単純と書いたが、乳児期や老年期はもっと睡眠を取っているのでどう見積もっても30年以上は眠っている計算になる。その30年ぶん眠っているので意識がない事になってしまう。

とは言っても、脳や体は睡眠中でも覚醒時とは違った働きで活動している。記憶の整理をしたり免疫力を高めたり、体内の炎症を納め治癒したりしていて、意味のある活動を行っている。血圧や尿の量をコントロールしたり、睡眠中の体の負担を和らげるために寝返りしたりして、その睡眠を確保するために機能している。だか、しかしだ。眠っている間、意識は一体どこに行っているのだ?。それにも関わらず、死んだ途端意識が活動し出すというのか。死後も存在するぐらい肉体以上の意味を持つほどの意識が、どうして生前は毎日毎日途切れてしまうのか。

今回は浅学ながら科学や物理学的な考え方で考察したが、決してオカルト趣向がない訳でもないので次の機会には少し違った切り口でまた考察してみたいと思う。チベット死者の書とかも読んでみたい。日本の民話の中にも興味深い記述が多く「現代の民話」(松谷みよ子著/中公新書)は興味深く面白く読めた。繰り返しになるが、生物進化のどのぐらいの過程で意識が発生したか、あるいは歴史的背景において霊的なものがどういった存在であったか、などまだまだ考察したい事柄を多く残している。必ずまたこの文章を含めてもう一度やってみたいと思っている。