多弦楽器の暴奏

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

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梅の開花とメジロの目

梅の開花とメジロの目

2月も後半残りわずかの寒空の元、梅が咲き始めています。

桜のように一斉に咲いて僅かな見頃の後、またたく間に散り落ちていくのも壮観な情景ですが、梅の花は長く見れるので楽しめます。枝には小さな丸い蕾がリズミカルに並び、花ひらく順番待ちをしているようです。
スイーツ好きなメジロがやってきて蜜をついばんでいます。かわいいな。ちっこいな。

メジロの目の周りのあの特徴的な白い輪っか、実は白い羽毛で出来ているそうです。写真を拡大すると実際の目があって普通の目をしている。少しがっかりする。でも、遠目から見ると無表情な大きな目で可愛く見えるのです。

人間の女性でも目の輪郭を大きく見せる化粧をするし、最近では瞳を大きく見せるコンタクトレンズや、目の位置を自動で検出して大きく加工するプリントシール機やスマートフォンのアプリケーションも人気があります。

また、マンガやアニメやその他キャラクターの顔も同様、顔と瞳の大きさの対比を変えることで「かわいさ」を表現しているものととれます。

よく考えてみると、人間も含めて動物の赤ちゃんが可愛く見えるのは、顔(頭蓋骨というべきか)に対して眼球の大きさの対比が成人よりも大きいので目が大きく見える。そこに「かわいい」という感情がなぜか生まれ、対象を可愛がる行動として母性本能のようなものがあるのではないでしょうか。

逆に「かわいい」は作ることが出来るものなので、先にあげた方法で可愛がられることも可能なわけなので、そこに人気が集まっているのでしょう。また、時代背景や文化的影響もあるとは思いますが、一般的に二重まぶたで目の輪郭が大きい顔立ちを魅力的だと思う傾向があるようなので、画一化された同じ方向性に向かうべく、それに近づけるように加工したり工夫を凝らしたりしている。二重まぶたにする美容整形もたぶんそうですね。違った方向性もあってもいいようなものですが。

遺伝的な要因で目の大きさや形状が、画一化された一般的に魅力的とされるものとかけ離れていることでコンプレックスが生まれ悩んだり、それで内向的な性格になってしまったりもする。そんな視点でみても目は他の器官とはかなり違った存在感である

「目は口ほどにものをいう」、「目は心の鏡」などのことわざを筆頭に「目が笑っている」、「目が怒っている」、「目に光がある」、「うつろな目」、「よどんだ目」、「目を三角にして」、などと目の表情にまつわる言葉の表現が多くありますね。「目が死んでいる」とか「腐った魚のような目」とか、極端にひどい例もありますが、うまい表現でおもしろいですね。

それぐらい、目という器官は単に光を取り込んで画像を認識するだけではなく、相手の僅かな目の表情から様々な情報を読み取ることが出来るわけですから、顔の魅力にとどまらず対人コミュニケーションの重要な器官として働いているように思えます。

例えば、対人関係において気に触ることがあり、顔では笑顔の表情を呈していても心の奥底では怒りを感じている、とか、平静を保っていていうつもりでも挙動不審意に陥っている。そんな目の微妙な表情が意外と多くの情報として発信していて、深読みしたり、気づかなかったり、的外れだったりする。その、「読み取る」とか「汲み取る」というのが、極めて高度で複雑な処理をその場の状況に応じて瞬時に対応しているんだなあと思えますね。

大きな目に小さな瞳がきょとんとした表情を見せるかわいいメジロ。実はその中にある本来の目でいろんな処理しながら小さい脚で枝をうまく捉えながら次々と蜜を吸っている。愛くるしく無表情に見える瞳の内側では「蜜うま」とか「人が多くてやりにくいなあ」とかいろいろあるのでしょう。