多弦楽器の暴奏

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

貧困層と地雷被害者

地雷のことが気になる。
こんなサイトを見つけた。

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地雷被害者が語ってくれたお話


1.ダッチ・ソパットさんのお話


僕はダッチ・ソファット、16 歳です。カンボジアのバンテイ・メアンチェイ地方のオクロヴ地域、オベイコアン自治体のタムナップ村に住んでいます。この村は、カンボジアの北西にあるタイ−カンボジア国境のすぐ近くにあります。両親は農業をやっていて、兄弟は兄が一人と姉が一人、弟が一人、妹が一人います。ある日、僕は弟と村から 500m離れた森に野菜を取りに行きました。1キロ50バーツで売るためです。

 それは家に帰る途中でした。弟(12歳)が地雷を踏んでしまい、その爆発で石が飛んできて僕の左目を直撃しました。顔が血だらけになりました。兄が水で僕の顔を洗ってくれました。驚いたことに弟は傷を負いませんでした。また地雷を踏んでしまったらどうしようかと不安になり、同じ道を通らずに家に帰るため、100m離れたタイの国境に向かうことにしました。そのほうが安全だと思ったのです。弟が一番前、兄が二番目、僕が三番目、列を作って歩きました。事故が起きたところから10mほどのところで、兄(18歳)が、最初の地雷よりも大きな地雷を踏んでしまいました。兄は即死、僕は左足に傷を負いました。弟も即死でした。僕は恐怖にふるえました。絶望の中で、兄と弟を起こそうとしましたが、二人ともすでに死んでいました。助けを求めにタイの国境まで行きました。それから1日たった2002年4月4日に、僕は片目と片足を地雷によって失うことになりました。

 タイの兵隊たちが、カンボジアの兵隊に連絡をとり、僕を助けてくれました。彼らは、オベイコアン自治体の健康センターまで僕を送り届けてくれ、そこで救急治療を受けました。それから、地域の救急車で、僕の村から59km離れたモングクル・ボルシの病院に運ばれました。午後1時に病院に着き、片目と片足の手術を受けました。手術には姉が付き添ってくれました。両親は家で兄と弟の葬式の準備に追われていました。4日後、やっと両親が病院に来ました。僕は病院に40日も入院することになり、両親は手術代として2000バーツ(47ドル)ものお金を払いました。僕の家族にとってはとんでもない大金です。

 森に地雷がたくさんあることは知っていました。でも仕方ありませんでした。野菜を売って貧しい家族を助けていたので、その野菜を集めに行かなければいけなかったのですから。その森には前にも3回行ったことがありましたが、この事故が起きるまで、事故なんて一度も起きたことはありませんでした。この地域には、地雷を踏んでしまった人が8人います。その8人のうち、5人が僕の村の出身で、4人が男、1人が女です。年齢はさまざまで、一番若いのが16歳、いちばん年上が40歳です。

 バンコクのオタワ協定の国際会議に出席できるのをとても嬉しく思います。他の人、特に他の国で地雷の被害に遭った人たちに会って、僕たちの経験や苦しみ、失望や希望などについて話し合うことができるからです。地雷除去作業をしている団体が、この地域、特にタイ−カンボジア国境地域の地雷を取り除いてくれることを希望します。そうすれば、僕の小さな村に住んでいる貧しい人々は、安全な環境で暮らしていくことができますから。僕は勉強を続けて、将来、村の先生になりたいと思っています。



2.マン・スレイモムさんのお話



私の名前はスレイ・マム、17歳です。2003年8月にプノンペンのラヴァラ小学校を卒業しました。家族は両親と7人の兄弟。私は兄弟の中で上から2番目です。

 ある日、私はシエム・リープで、一人の外国人が障害のあるカンボジア人の男の子2人を連れ、市場でお昼を食べているのを見ました。私はこの外国人のところに行き、家族のために食べ物を買うお金がほしいと言いました。この外国人がS. J. キケ神父様だったのです。キケ神父様は、お昼を一緒に食べないかと私に言ってくれました。私は2本の杖をテーブルのそばに置き、彼らと一緒に座りました。前の日から何も食べていなかったので、とてもお腹がすいていました。お昼を食べた後、キケ神父様から、スラムにある叔父の家で暮らしている私の両親のところに連れて行ってほしいと言われました。キケ神父様は両親に、私をプノンペンにある学校に行かせてもよいかどうかと尋ねました。両親は「はい、でも・・・」と答えました(もし私がプノンペンに行ったら、いったい誰が、食べていくためのお金を物乞いするのかと心配だったに違いありません)。その一週間後、突然、土地をつぶして新しい立派なホテルを建てるのだといって、大きな建築用マシンがやってきました。私たちは住んでいる土地から追い出されてしまったのです!

 両親は職を得るためにタイの国境に行き、私はコンポン・トムの粗末な小屋に祖母と暮らすことになりました。ある日、私がまた市場で物乞いをしていると、後ろで大きなクラクションが鳴りました。キケ神父様でした。また、小屋まで案内するように言われました。そこで神父様は祖母から私をプノンペンに連れて行く許しをもらい、祖母に100kgもの米を渡してくれました。

 プノンペンに行く車の中で、神父様に、なぜ私が物乞いをしているのか聞かれました。理由はこうです。以前の私たちはコンポン・トムに住んでいる普通の農家で、牛や鶏を飼っていました。ところがある日、私は牛にやる草を刈りに川岸に行き、地雷を踏んでしまったのです。近くにいた両親が爆発音を聞いて私を助けに駆けつけ、コンポン・チュナング病院に連れて行ってくれました。1ヶ月入院しました。両親は、の手術代を払うために、飼っていたすべての牛と鶏を売らなくてはならなりませんでした。私の傷は全く良くならず、傷跡は感染して腫れていました。母は私をコンポン・トムの病院に連れて行き、一年間の通院がはじまりました。両親は私の治療費のために、持っていたものをすべて売り払いました。私たちはホームレスになってしまったのです。アンコール・ワットには外国人がたくさん見物にくるので、大きいホテルが建つという噂を聞き、シエム・リープに移ってきました。両親が仕事を見つけられるかと思ったのですがだめでした。それで私が物乞いをするようになったのです。

 地雷の被害者とは誰のことを言うのでしょうか? 地雷によって片足を失った私だけが、地雷の被害者でしょうか? 違います! 私の家族全員、そして親戚も、地雷の被害者なのです。これ以上、地雷のせいで切断手術をする子供を見たくありません。世界中の子供たちが地雷の恐怖なしに地上を走れるような、そんな世界になってほしいのです。

 私は自然が好きです。将来は先生になりたいと思います。ありがとうございました。



4.ヤン・レイさんのお話



私の名前はヤン・レイです。私は1963年7月20日に生まれ、カンボジアのバンテイ・メアンチェイ地方、オチョロヴ地域、プロイペット自治体のテュオル・プラサット村に住んでいます。タイ−カンボジア国境に近いところです。夫は52歳で、息子5人と娘5人の合計10人の子供がいます。私は3年生まで学校に通いました。

私たちは、まきを集めて、一日当たり20〜40バーツ(1ドル以下)で売って生計を立てているのですが、私は2003年2月 25日の午前9:30に地雷を踏んでしまいました。夫と4人の村人と一緒にまきを集め、家まであと200mのところでした。ちょうど妊娠3ヶ月のときでした。爆発で両足を失い、1メートルの高さまで飛ばされ、お尻から地面にたたきつけられました。救急治療のため、バイクでポイペットの健康センターに運ばれました。健康センターは300バーツ(8ドル)の治療代を請求してきましたが、私たちは本当に貧乏なのでそんな大金は払えませんでした。幸運なことに、国際的なNGOの車が通りかかり、ポイペットから57km離れたところにあるモングクル・ボレイの病院まで連れて行ってくれました。病院には12:00に着きましたが、両足切断にかかる5600バーツ(123ドル)を払えなかったので、医師たちはすぐには治療をしてくれませんでした。

1時間半経ち、夫がお金を払うと約束して、やっと両足は膝下で切断されました。夫は近所の人たちにお金を借りたのですが、3300バーツ(80ドル)しか集められませんでした。私はその後17日間入院。傷は完治していませんでしたが、治療に不満があったので、退院することにしました。2003年8月7日、私は健康的な男の子を出産し、夫がヌヒム・メウンと名付けました。

両足を切断した体で赤ん坊の面倒をみるのは大変ですが、会議に出席するためにバンコクに行けたことを嬉しく思います。地雷の被害者としての私の悲しい話を世界中の人と分かち合い、他の人の話も聞くことができました。

私の村には、7人の地雷被害者がいます。年齢は18歳から49歳まで様々ですが、両足を切断した人が3人、片足を切断した人が4人います。CMAC(カンボジア地雷除去作業センター)が、私の村の近くの地雷を除去し、これ以上地雷の被害者が出ないことを祈っています。私は将来のために、裁縫を勉強して、家族のために稼いでいる夫を助けていきたいと思っています。

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判り難いかもしれないが1バーツが約3円程度だ。

結局さあ、僕らは何にもしてあげられないんだね。
かなしいよ。

貧困や戦争。僕が募金や何らかの活動団体に所属すれば
何かが変わるのか?。中途半端な偽善活動。

今年3月タイに旅行に行った。金持ちの日本人が旅を満喫しているその場所で、僕の娘ほどの10歳にも満たない少女が花を売るために歩いていた。時間はおそらく夜の11時ぐらいだったと思う。多くの車が行き交う、信号や横断歩道もない危険な道を歩き、花を売って家計を助けているのだろう。

そんな光景をふと思い出した。