多弦楽器の暴奏

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

不思議な形

夏期休暇ということで実家に帰り、昆虫や植物の観察をしたりして、短い夏のひとときを楽しんだ。親や兄弟に会い(皆ずいぶん老けこんだが)、長いこと合っていなかった叔父さんや叔母さんにも会い(こちらもかなりお年を召されているが、お元気そうで何より)話をし、小さかった頃のお盆で沢山の親戚が集まり、ワイワイガヤガヤ楽しい光景が蘇る。そんな残影とも記憶の断片ともいえないものを、自然の中にも求める。

幼い頃、何もかもが不思議でならなかった。

落葉した一枚の葉を手に取り太陽にかざして見れば、透き通った緑色の人間の血管のように広がる葉脈が見える。人体の隅々まで新鮮な血液をおくるために次々に枝分かれし、分岐をすればだんだんと細くなり、それは大地をわたる河川をも想起した。振り返り木を見ると、葉脈の形状と葉の付いていた木の幹や枝との形が酷似していることに気付く。はっと息を飲み、他の木や植木、雑草の葉も確かめた。やはり似ている。葉の形そのものが、葉を付けた樹木や植物の外観形状と殆ど同じなのだ。

イチョウの木もポブラの木も、あの雑草の葉さえも。

何気なく見ていたものが実は、何らかの法則に基づいている。という目に見えない神秘的な力の存在に震撼し、それを上手く人に伝える術さえ持たない子供だった。

幼稚園で落ち葉を拾って集め、それを木に見立てて画用紙に貼り、その周りの状況をクレパスで描く、といった工作をやった。ここで、僕の想像が確信に変わった。やっぱりそうだ。葉っぱを貼りつけた形は、まさしく、その木の形そのものではないか。そんなことを考えながら貼り絵を作った。

自己相似形とかフラクタル幾何学や、ガードナーやペンローズ、イアン・スチュアートとかの本に大人になって出会う。やっぱりそういうことだったのか。

好きに使っていい時間を、虫あみ振り回し蝶を追いかけたり、植物達の幾何学的形状やそのパターンの不思議さを興味深く写真に収めたり。子供に帰っていいんだよと、自然が僕に語りかける気がした。