多弦楽器の暴奏

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

心よりいず、願わくば再び心に至らんことを

柊鰯

節分三部作の最終話w。

ーーー柊鰯(ひいらぎいわし)とは.....柊の葉の棘が鬼の目を刺し、鰯の臭いで鬼の戸口からの侵入を阻むための御呪い(おまじない)。ーーー

実家の木屋の戸口の屋根裏の梁だったか柱だったかに、焼け焦げた魚の残骸のようなものが貼りつけられていて、子供の頃に不思議に思っていた。それが何かのおまじないの類だという事はだいたい察しがついていたのが、祖母にあれはいったい何を意味するのかと尋ねてみたことがあった。

祖母曰く、これがあると家に鬼が入ろうとするとそれを阻む、入らない、入ってこれない。或いは、これがあるお陰で今まで一度たりとも家の中に鬼は入って来なかった、みたいなことだった。ずいぶん鬼とは魚嫌いの臆病な小心者なのかと考えをめぐらし、そんなことだから豆鉄砲ごときでおたおたと狼狽えるのかと、なんとなく理解ができた気がしたものだ。

ちなみに、この頃の僕は節分の豆撒きと鳩に豆鉄砲とが完全に同一化したイメージで捉えてしまっていて、豆まきをするという経験が伴わなかったため、イメージばかりが先行してしまっていた。そんな訳で、自動小銃のような連射可能な豆鉄砲を腰溜めに抱え、頭を抱えて逃げ惑うマヌケな鬼を執拗に追い回す自分を想像していた。いや、妄想していた。

そういえばそう。お伽話に登場する鬼は威張って人に悪さこそするものの、最終的には英雄に懲らしめられ、諭されて泣きをみる、どことなく憎めないガキ大将的存在で描かれることが多かったように感じられたものだ。

鬼なんていやしない・・・。

昔の公衆衛生が整っていなかった時代に流行した疫病をたとえたもの。或いは、発生のメカニズムが解明されていなかった中世の時代で、異常気象や地震津波などの自然災害を鬼などの魔物や化物の仕業。もしくは、ーーずいぶん生贄(いけにえ)や人柱もあったことだろうがーー神の戯れや神の怒りとすることで、なんとか感情の折り合いをつけて諦め納得してきた。

人さらいや子取り、神隠しなどの誘拐。あるいは強姦や殺人といった極悪非道の災難さえも、鬼や天狗の仕業にすることでーーそういった者に準えることでーー理不尽な現実がもたらす吐け口のない憤りや怒りといった感情をやり過ごし、それでもなんとか心の平穏を取り戻すための対策ではなかったのかと思えてならない。鬼がやったのだから仕方あるまい。そうやって、突如豹変し自らが鬼になることを避けたのかも知れない。

自然や社会に潜み、暴虐無事で情け容赦のない災をもたらす力を持ち、人々を混乱と不安に至らしめるべき存在が、その剥き出しの本性を顕にする姿を垣間見た時、人は戦慄しおののき、これをまさしく鬼と言わずしてなんと呼ぶべきか。

そんなことを考えていると隠喩としての鬼ではなく、むしろ人の手では如何ともしがたい事象を鬼や天狗や神様という概念で捉えていたことが、強ち悪いこととはいえないのでは、という気にすらなる。

それは物理的な現象なのかも知れない。或いは気に病んだ人の心なのかも知れない。それをそのままの姿かたちで受け止めることが、人にとってどれだけ困難を極めることであるか考えると想像を絶するものがある。

間違って鬼が入らないように柊鰯を戸口に挿し祈りを捧げ、図らずも災いが降り掛かってもそれはやむなし。鬼の仕業にしておいて時が経つのを待つべし。昔の人は寛容で器が大きい。違う、そういうことではなく、災とは避けて通れないものなのだから、それならばどう向きあえばよいか、ということなのかも知れない。

少なくともこの僕は、どうやったら災に会わず回避できるか。そんな事しか考えていない節分の夜。